鼻が折れると鼻血が出る

鈍器で顔を殴れば鼻は折れるし、誰かのために行動すれば社会は変わる。仕事も執筆も想いを込めて。

あの時、人生が停滞していた27歳の私に伝えたい言葉


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 大学1年の時、ディベートの授業で私は忘れられない言葉に出会った。教授に急用ができ、その授業のアシスタントをしていた仲の良い先輩が授業を代わりにすることになった。

 肯定派と否定派に分かれて、政策の是非を議論するのが、政策ディベートです。新たに政策を導入すれば、プラスの効果が発生すると同時にマイナスの効果も発生します。双方を比べて、プラスの効果の方が大きいと証明できた時は、その政策を導入した方が良いですね。肯定派の勝ちです。逆に、マイナスの効果が大きいと証明できた場合は否定派の勝ちとなります。

 では、プラスの効果とマイナスの効果が同じ場合はどうなるでしょうか。プラスマイナスゼロならば、その政策を導入する意味がないですよね。否定派の勝ちとなります。

 筋が通った説明である。私含め、学生一同はうなづき、メモを取った。

 その日の夜、私は先輩の家でいつものように読書をしていた。壁にびっしりと並ぶ哲学書の中から、気が向いた本を適当に読む。お金持ちの先輩の家は広かったし、詩人のように飄々として、誰からも好かれていた。私以外にも、意味もなく先輩の家になんとなく集まる人はたくさんいた。

 ふと、先輩がレクチャーの時とは異なる、他人事のように投げやりで、でも自信に溢れる不思議ないつもの口調で話しかけてきた。

 今日さ、プラスマイナスゼロなら、その政策をやる意味がないって言ったじゃん。でも、本当は違うと思うんだよね。やってもやらなくても同じなら、あるいはどっちがいいのか分からないなら、とりあえずやってみればいいと思う。少なくともその選択を決断すれば、変化を学習できるわけじゃない。新しい取組みは、それをすること自体に価値がある。別にディベートとは関係ない、俺の個人的な思想ではあるけど。

 その時は、少し本から顔をあげて、「そうですね。新しいことをやってみると知見が蓄積できますね。」と答えた程度であった。しかし、この時、先輩がつぶやきのように私へ投げかけた言葉は、何年経っても一文字も違えずに思い出せる。

 

 24歳の時、私の名刺には役員の肩書があった。本当に小さな会社であったが、私の自尊心を満たすには、CFO(最高財務責任者)という肩書は十分であった。実態は親族でやっているちっぽけな会社で経理を担当しているに過ぎないとしても。

 私が親族の事業に加わったことにより、業務の電子化と合理化が進み、親族からはもてはやされた。給与も会社に入ったばかりの同級生よりだいぶ多かった。

 最初の2年、会計の電子化、契約関係の見直し、業務の合理化に奔走した。言葉は格好良いが、要は普通の企業がやっている普通のことを導入していった。

 次の1年、会社の皆に私の導入したシステムに慣れてもらった。会社全体が効率化した。皆から凄いねと言われていた私の技術は、システム化されたことで、皆にとって当たり前のものとなった。

 そして、私は特に専門性のない27歳になっていた。もう、会社に貢献できることは少なかった。

 この頃から、同級生のSNSが眩しくなる。海外出張、大きなディール、華やかな飲み会、私には縁のない世界が次々に投稿されていた。同級生の結婚式はすべて断っていた。

 明らかに人生に停滞感を感じていた。でも何をして良いか分からなかったし、何に悩んでいるのかすら明確には分からなかった。ただ、私はどうにかして環境を変えたかった。

 

 海外で働くことにした。

 決断と言うには、少し後ろ向きかもしれない。日本から出れば、何かが変わるかもしれないと考えた。根拠は全くなかった。単に海外旅行を頻繁にしていた時期であり、日本と違う空気に開放感を覚えただけかもしれない。

 海外で採用された場合、日本から派遣された者よりも大きく給与は劣る。また、本社の人間ではないため、権限もなく、昇格や昇給も難しい。調べてみると、様々なネガティブな情報が見つかった。

 決めるまでは相当悩んだ。この選択は、逃げではないのか。逃げだとしたら、逃げた先に未来はあるのか。しかし、今の日々をこのまま続けると、自分の何かがゆっくりと朽ちていくような気がした。

 決め手は、時折ふと心によぎる先輩の言葉であった。

 どっちがいいのか分からないなら、とりあえずやってみればいいと思うんだよね。少なくともその選択を決断すれば、変化を学習できるわけじゃない。新しい取組みは、それをすること自体に価値がある。

 国はどこでも良かった。インド、ミャンマー、ベトナム、タイなど何ヶ国かの会社を受け、一番に業務に興味が持てたタイの会社に入ることにした。

 

 入社してみて驚いた。私が業務の合理化を行う前の親族の会社にそっくりな状況であったからだ。日本の大手企業とはいえ、海外の現地法人は数十人の規模である。効率的な業務体制の構築は後回しにされ、目の前の仕事をこなすので精一杯であった。

 中でも驚いたのが、日本人役員が、お客様への請求書を作っていたことである。本来はこのような単純な作業は、平社員の仕事である。以前はタイ人に任せていたが、数字のミスが多発し、日本人が担当することになったという。

 業務フローを書き出した。ミスが起こる可能性があるところは、ダブルチェクとして二人を割り当てた。さらに関数を用いてミスを自動判定するエクセルを作った。結果、単純作業は平社員が行い、役員は大きな案件の営業やマネージメントに専念することができるようになった。

 もちろん簡単な仕事ではなかった。まずは私自身が単調な仕事を引き受け、仕事を理解した。その上で割り当てられた仕事に加え、業務の効率化に取り組んだ。退社はいつも22時を過ぎていた。出ると聞いていた残業代も出なかった。

 業務の効率化がある程度進んだ段階で、他の人に効率化推進の旗振り役を変わってもらった。私は、移転価格税制への対応、コンプラアンス体制の構築などより難易度の高い業務に挑戦させてもらった。週末は本を読み、近い将来に必要な知識を少しずつ蓄えていたことが功を奏した。

 以前と同じ失敗はしなかった。常に会社に貢献できるよう勉強を続けた。業務範囲を少しずつより高度なものにシフトしていった。幸運なことに、努力が評価され、待遇も満足できるものになった。

 

 32歳になった。悩みと倦怠感に押し潰されそうになっていた私はもういない。

 タイでの成功の表面的な理由は、努力と熱意であるかもしれない。しかし、日本にいた時の私は、憂鬱に心が蝕まれ、努力するエネルギーを捻出できなかった。環境を変えるという決断は、当時は自信が持てなかったけれど、振り返ってみると正解であったと今は思える。

 先日、部屋を整理していたら昔の日記が出てきた。27歳が終わる一ヶ月前、日本を出た日付にこう記されていた。確か、空港でタイへの飛行機を待つ間に書いたはずだ。

英語もタイ語もできません。資格も専門技能もありません。あるのは、人生への渇望と絶望だけです。未だに迷いは断ち切れません。海外就職という苦し紛れの選択。溺れかけている私がすがったのはロープでしょうか。藁でしょうか。

 27歳の私にこう伝えたい。

   5年後の君は、元気にしています

 

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#「迷い」と「決断」

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(写真はタイ国のラン島にて筆者撮影。1枚目の壊れた橋を渡って人気のない険しい道をしばらく進むと、青い空と海が私だけのために広がっていた。)