鼻が折れると鼻血が出る

タイ就職やキャリア論など。現地採用の待遇と地位の向上にほんの少しでも貢献したい。

タイで就職したい男を村上春樹が書いたら

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「タイ人の女性が好きなんです」と彼は抑揚はないが力強い声で言った。彼のその言葉は、本心をありのままに表していて、余計な部分も足りない部分もなかった。

「タイ人の女性ですか」僕は少し間を置いて繰り返した。僕の言葉は、かぼちゃ畑の真ん中で誰かがつぶやいている牧歌的なひとりごとのように聞こえたかもしれない。

 誰かが何かを好きになることに、僕が口を出す権利はない。しかし、ここは転職活動の場で、彼は求職者だし、僕は人材会社の担当者だ。リストランテのワインリストのような志望動機を諦めても、今日は僕の職務怠慢にはならないかもしれない。しかし、モッリー(茹ですぎたという意味だ)のパスタであっても、リチャードジノリの皿に盛ってしまえば、誰も文句をつけなくなることを僕はこの仕事を通して学んでいた。

 私がしばらく言葉を探している間、彼は何か珍しい動力で作動する機械でも見るみたいに、じっと僕の顔を見ていた。僕は何を言うべきか分からなかったし、そもそも何か言葉を投げかけるべきなのかすら分からなかった。

「はい。タイ人の女性です」と彼は改めて自分自身に言い聞かせるかのように口を開いた。冷房が壊れているのか、いつもより格段に蒸し暑い部屋にも関わらず、彼は汗一つ書いていなかった。青山通りのスーパーマーケットで、昼下がりの買い物を済ませ、コーヒーショップで一息ついているマダムのような余裕が滲みでいてた。

 もしかすると、僕がそう感じただけで、彼には彼なりの焦燥や悩みがあったのかもしれない。仮にそうであっても、僕には分からないことだし、彼の心の奥のわだかまりと対話できるのは彼自身であって僕ではない。

「正直に申し上げてもよろしいでしょうか」僕は芸術的な造形のワイングラスを持ち上げるように注意深く切り出した。

「私の転職に関してでしょうか」

「あなたの転職に関してです」

「私たちはそれを話すためにここにいます。どうぞお話下さい。本筋の他にパスタの茹で方やコーヒーの淹れ方にこだわりがあるならば、それも合わせてお話いただいてもかまいません。どんな話であっても、どんなに長くても聞く準備はできています。」

 僕は彼の全身をもう一度眺めた。おろしたてのように真っ白なテニスシューズと、不自然なまでに裾の短い短パン(裾の短い短パンとは変な表現だが、彼の短パンは普通の短パンよりもいくぶんか裾が短すぎるように思えたのだ)の間には、彼の威厳ある顔に不釣り合いな細い足が覗いていた。そしてTシャツには「Good People Go To Heaven, Bad People Go To Pattaya」と書かれていた。

 転職活動の場では、その格好は好ましいとは言い難い。でも、誰かが決めた窮屈な理屈を彼に今、押し付ける気はなかった。冷房だって効きが悪いし、飼っている猫も行方不明だ。そして、彼には彼の流儀がある。もしかしたら、彼の部屋にはしっかりと手入れされたAUSTIN REEDのブリティッシュスーツが、バッターサークルで静かに出番を待つ4番打者のように佇んでいるのかもしれない。

「ただ今、ご紹介できる求人はございません。」この僕の声は、まるで自分の声には聞こえなかった。どこか遠くから、わざわざ運ばれてきた声みたいだった。

「今、紹介できる求人はない」またしても彼は自分に言い聞かせるように呟いた。そして決意したように、僕にこう言った。

「私はタイに来なくてはなりません。そして、それは今でなくてはなりません。本当に大事なことで、うまく説明できる自信はありませんが、とにかく今でなくてはならないんです」

「本当に大事なことは言葉にはできないものです」彼の言葉には僕は頷いた。

 それから少しばかり世間話をすると、彼の次のアポイントの時間になった。近くある知り合いの会社をこのまま受けにいくという。どうやら、AUSTIN REEDはバッターサークルで出番待ちをしていなかったようだ。

 別れ際、僕は「求人、しっかり探させていただきます」と彼の目を見て言った。

「ありがとうございます」と彼は少し微笑みながら答えた。久しぶりにどこかの引き出しの奥から引っ張り出してきたみたいな懐かしく親密な微笑みであった。目の細め方が素敵だ。

 時計を見ると15時を過ぎていた。エスプレッソのダブルを飲みたい気分であった。もう会うことはないであろう彼の履歴書をシュレッダーに放り投げ、オフィスビルから外に出ると、小雨が降っていた。足元の革靴に目をやる。少し彼のテニスシューズが羨ましくなった。